公開研究会「市民事業と商人道──現代のまちづくり・市民事業に通じる心意気 」

基調講演:松尾匡「市民事業の経済倫理としての商人道」


○久留米大学の紹介
 みなさまこんにちは、久留米大学経済学部の松尾と申します。本イベントは久留米大学産業経済研究所の主催ということで、まず主催者のあいさつをさせて頂きます。
 久留米大学のある久留米市は福岡県福岡市より40キロ離れた筑後川の中流に位置する人口30万の都市です。久留米市はブリヂストンが発祥した土地であり、その他「ゴム三社」と呼ばれるゴム関係の大工場がある製造業の街でした。しかしご多分にもれず製造業衰退の流れを受け、現在は地域経済も苦境の中という状況でございます。
 久留米大学は来年度で創立80周年を迎えます。医学部、商学部、経済学部、文学部、法学部の五学部あります。久留米大学の前身である医科専門学校は石橋正二郎(現ブリヂストン創業者)より寄付を受け作られた私立の大学です。そして1999年より地域貢献としてNPOや実践家の人々をお呼びして講義を行って頂いており、地域にも開かれた公開講義を実施しております。最近、その成果を本にまとめたものが出版されております。

著書紹介『市民参加のまちづくり』シリーズ
・西川 芳昭、松尾 匡、伊佐淳編著(2005)『市民参加のまちづくり【事例編】−NPO・市民・自治体の取り組みから』創成社.
・西川 芳昭、松尾 匡、伊佐淳編著(2005)『市民参加のまちづくり【戦略編】−参加とリーダーシップ・自立とパートナーシップ』創成社.
・浅見良露、西川 芳昭編著(2006)『市民参加のまちづくり【英国編】−イギリスに学ぶ地域再生とパートナーシップ』創成社.
・『市民参加のまちづくり【事例編】【戦略編】−韓国語訳』ハヌルブックス社.
・伊佐淳、松尾匡、西川芳昭編著(2007)『市民参加のまちづくり【コミュニティ・ビジネス編】』創成社.
・『市民参加のまちづくり【コミュニティ・ビジネス編】−韓国語訳』ハヌルブックス社.
 

 NPOや市民事業も最近の企業不祥事は他人事ではないと考えております。市民参加型のまちづくりが豊かに出来ていく土壌を作るためにもこの事を深く受け止めることは重要であると思い、本フォーラムを企画しました。
 

○基調講演 (パワーポイント資料632KB)

 市民事業とはNPOや市民参加型まちづくり、協同組合などの事業形態の総称です。
 これらを扱う市民事業論は三つの段階を経て進んできていると言えます。そこで第一段階を「第三の領域発見の段階」としております。冷戦時代や55年体制時には市場・営利セクターがある一方で、行政セクターがあると考えられてきました。ここではどちらを中心にするかという点で議論が行われてきました。市場・営利セクターを中心とする保守陣営(典型例がアメリカ)と行政セクターを中心とする革新陣営(典型例がソ連)です。その対立が冷戦時代でした。結局、行政セクター中心では非効率や弊害が生じ、ソ連・東ヨーロッパの崩壊や中国改革に象徴されるようにうまくいかなくなりました。そこで90年代初頭からは市場・営利セクター中心へと移行していきました。
 しかしここでも格差や環境破壊、コミュニティの崩壊など新しい様々な問題が生じてきています。「市場・営利企業セクター」でいくか「行政セクター」でいくかという問題であったが、どちらもうまくいきませんでした。実際に生きている生身の人間の個々人の暮らしとは非常に遠いところで世の中が動いており、ひとりひとりの生活が振り回されている事が原因です。その点において、どちらも(市場・営利セクターを中心も行政セクター中心も)同じ穴のムジナでした。そこで生身の人間の手の届く範囲で物事をコントロールしていきましょうという声からNPOや協同組合、コミュニティを中心とした第三の領域がありますよ、というのが市民事業論で最初に出て来た話です。

 1998年には日本でもNPO法が成立し、その数年後に第二段階に移行してきました。実際に活動している人々から行き詰まってきた例が出てきたのです。この段階は「バランス論の段階」です。市民事業においてミッション性が大事であるが、一方で採算性も大事であるという話です。ミッション性ばかり重視していると経営破綻して事業が続けられなくなります。しかし採算性ばかり考えていくと市場セクターに飲み込まれ、拝金主義に陥り腐敗します。このバランスが大事ですよというのが第二段階となるバランス論です。 

 ところが次にバランス論では説明のできない失敗例が出てきます。これが第三の段階「アソシエーション概念精緻化の段階」です。経営破綻とは別の形での失敗に気づくようになったのです。市民事業が腐敗、変質してしまいます。例えば、執行部の独裁、人権抑圧、低所得酷使、対外不祥事などがこれに当たります。このような変質の例が出てきました。大阪の生協の例にもあるように、ワンマン副理事長は決してミッション性が低かった訳ではなく、反営利的なミッションを高く掲げていましたが、そのようなミッションが逆に腐敗を促進していたという結果です。反営利的な高いミッションを掲げれば、営利にのまれなくて大丈夫というわけにはいかないのです。
 これらの変質の基本的な原因は閉鎖性にあります。つまり第三の領域は一括りにはできず、二つに分ける必要があります。ひとつは身内共同体、もうひとつはアソシエーションです。身内共同体は江戸時代の村社会みたいもので閉鎖的なものになります。そうではなく、我々が目指す市民事業は「アソシエーション」、つまり開放的でなければなりません。集団に個人が埋没するのではなく、個人が自立しなければなりません。

 ここで、次の第四段階に進んでいきましょうという話になってきます。ここで問題となるのは、どんなミッションを掲げるべきで、また掲げてはならないかということです。身内共同体の倫理ではなく、アソシエーションのための倫理を考える必要があります。どう違うのかというのがひとつ課題として挙げられます。本日議論をしたいのはこの問題です。
 第二段階のバランス論の段階では「市場かミッションか」その間でバランスを取りましょうという話だったが、実は「市場かミッションか」ではないということです。市場取引そのものを「汚れ仕事」と位置付けてはなりません。そのように位置付けるが故に変質するのです。市場取引、それ自体がミッションなのだと考えなければなりません。そこで出てくるのが「商人道」です。
 このことを考えるために良い枠組みを提供してくれているのがジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』(日本経済新聞より出版)です。ジェイコブズは古今東西、昔から現在まで世界中の教訓話や道徳話を集めました。そして収集した話からこれらは2種類に分けられることを発見しました。
 

市場の倫理(商人道)
中心価値:他人に対する「誠実」

 暴力を締め出せ
 自発的に合意せよ
 正直たれ
 他人や外国人とも気安く協力せよ
 競争せよ
 契約尊重
 創意工夫の発揮
 新奇・発明を取り入れよ
 効率を高めよ
 快適と便利さの向上
 目的のために異説を唱えよ
 勤勉なれ
 節倹なれ
 楽観せよ
 

統治の倫理(武士道)
中心価値:身内に対する「忠実」

 取引を避けよ
 勇敢であれ
 規律遵守
 伝統堅持
 位階尊重
 忠実たれ
 復讐せよ
 目的のためには欺け
 余暇を豊かに使え
 見栄を張れ
 気前よく施せ
 排他的であれ
 剛毅たれ
 運命甘受
 名誉を尊べ

 ひとつは統治の倫理(武士道)で、もうひとつは市場の倫理(商人道)です。二系統に分かれたこれらはお互い矛盾します。道徳にはどうやらこのような性質があるのです。統治の倫理では「身内への忠実」を大切にしなさいというのが道徳の中心となります。一方、市場の倫理では「他人への誠実」が道徳の中心です。お互い本質的なところで対立する道徳の体系がある。アソシエーションでは他人への誠実を中心とする道徳、つまり個人主義開放社会の倫理でなければならないということです。
 この二つの倫理観の違いを典型的な例で話します。あなたが経営者だとして、企業の不祥事が発覚した時、どちらを選択したらいいでしょうか。

(1)幅広い顧客の信頼を優先することが道徳的である(個人主義開放社会の倫理)
(2)あくまで忠実な身内をかばうことが道徳的である(身内集団社会の倫理)
 実際その状況下に置かれたらどう選択しますかという話ではなく、道徳的なのはどちらか、です。究極の板挟みの選択です。(1)は個人主義開放社会の倫理=商人道です。(2)は身内集団社会の倫理=武士道です。これまでの日本は(2)の方でした。
 そしてこれらは相容れない倫理観で、お互い相手が偽善者に見えてきます。(誰でも身内はかわいいものだが、そんな私情を「正義」というのは偽善だ⇔客に見放されたら食っていけないからと言って、そんな私益を「正義」というのは偽善だ。)
 問題はなぜこのような違いが生じるのかということです。人間は生きていく上で悪意のリスクに対して処理することが必要となります。ひとつの方法は絶対に裏切れない相手を固定して人間関係を完結させる方法。「内は安心、外は危険」(外に出るなら覚悟せよ)。これが身内集団社会です。二番目の方法は、危険と思ったら場所や相手を変える、方法を改めるということです。これが個人主義開放社会のやり方です。根本的なところで相容れません。

 従来の日本というのはどちらかというと「身内集団原理」で世の中を回してきたところが多かったです。日本型雇用慣行、安定株主・企業系列・企業系列、長期的取引、規制による業界団体の保護、貿易制限による国内産業の保護などがその象徴です。このような時代では身内集団の倫理はふさわしかったのです。
 ところが、このことは様々な問題を持ちまして、例えば、70年代の三菱重工爆破テロ事件において爆破によって多くのけが人が出たが、多くの人はけが人を傍観して介抱しようとしない。所々介抱する人がいたが、介抱するのは会社の同僚だけという場面が奇異に映って、外国特派員によって報道されているという事件でありました。あるいは、山一証券倒産時の社長が泣いて「社員は悪くありません」と発言した。このような発言をすることが道徳的に正しいという判断がありました。あるいは、JRの尼崎市の列車事故では、事故列車に乗っていたJRの社員が上司の指示にしたがって乗客を助けずに会社に遅刻しないように出社したという倫理観です。お客さんを助けることよりは、会社に遅刻しないよう出社することが道徳的で正しいということでした。また極端な例で、ダクラス=グラマン事件の日商岩井社員が「会社の生命は永遠です。」という遺書を残して会社をかばって自殺したということがありました。
 以上のようなものが、「身内集団社会の倫理」として典型的な例です。最近では、いっぱい不祥事があります。以下は、代表的な例です。
近年の企業不祥事
雪印乳業事件(00年6月発覚)、三菱自工事件(00年7月発覚)、雪印食品牛肉偽装事件(02年2月発覚)、日本ハム牛肉偽装事件(02年8月発覚)、三菱自動車欠陥車事故(04年6月元役員逮捕)、ニセ温泉事件(04年7月から相吹ぎ発覚)、コクド事件(04年10月)、松下フアンヒーター欠陥事件(05年1月発覚)、保険金不払い事件(05年1月から相次ぎ発覚)、カネボウ粉飾決算事件(05年4月発覚)、 JR 西日本尼崎列車事故(05年4月)、マンション耐震強度偽造事件(05年11月発覚)、ライブドア事件(06年1月役員逮捕)、東横イン偽造工事(06年1月から相次ぎ発覚)、村上フアンド事件(06年6月役員逮捕)、不二家期限切れ原材料使用事件(07年1月発覚)、関西テレビ「あるある」ねつ造事件(07年1月発覚)、ミートホープ食肉偽装事件(07年6月発覚)、白い恋人期限改ざん事件(07年8月発覚)、「赤福」偽装事件(07年10月発覚)、比内地鶏事件(07年10月発覚)、船場吉兆事件(07年12月発覚)、再生紙偽装事件(08年1月発覚)

 このようなことになるのは「身内集団原理」のために、日本では「仲間の目」が西洋で言う神様みたいな役割をしているからです。昔、旧日本兵士が中国大陸で強姦等を行っていましたが、性欲が目的でこのような強姦を行っていたのではないという例もあり、兵士仲間の間で「女も犯せないのは腰抜け」と見られる観念があり、仲間の目を気にして性欲のわかない老婆に対しても強姦を行っていたということもありました。
 また、周りのみんなが死に急ぐので、自分も死に急ぐ特攻隊員や、サイパンでは泣き叫んで嫌がる子どもを道連れにして母親が次々と飛び降りて自殺する集団自決、棍棒をもって機関銃に立ち向かう玉砕、とにかく周りの目を気にして周りと同じようなことをして次々と命を落としていきました。ところが自分の命を顧みない日本兵が捕虜になりしばらくすると、今度は積極的に米国の協力をするようになりました。これはドイツ人やイタリア人には見られない現象であったと言われています。米軍に協力する捕虜の日本兵は、もう日本へ帰れないと思うと、今度は周りが仲間(身内)になり、身内集団であるアメリカ軍へ協力するようになる。あるいは、日本兵はソ連に抑留されると今まで「天皇陛下万歳」と言っていたのが「スターリン万歳」というようになり、簡単に洗脳されるようになりました。それでスターリンは、ドイツ人やイタリア人の捕虜にも同じように洗脳しようとするが失敗している。日本兵のみ成功しました。あるいは、もっと近い事件だと連合赤軍事件や内ゲバなどがあったがこれも仲間の目を気にしていたことです。オウム真理教事件も同じです。
 また、少年によるリンチ事件などを後で取り調べると、加害者たちはみんなヤバイ思っているが、「やめようぜ」と言ってしまうと仲間から腰抜けと見られる。それが嫌で言い出せなくて、最後には死ぬとこまで行く。

 今の若者は個人主義的だから無軌道なのか、とよく言われていますが、これは全く違います。むしろ数人の仲間集団のつながりを重視しています。ケータイメール族、ジベタリアン、ガングロなどみんな周りの目ばっかり重視しています。そして仲間集団以外の者からの評価は視野外ということが分かります。これらは集団の規模の違いだけであって、旧軍・赤軍・オウム・企業不祥事と本質は一緒と言えます。
 私たちの大学でも、この傾向が激しくなっているように思うのですが、最近の一、二年生の男子学生が思春期の女子のような行動をとります。大学なので授業間に教室を移動するのですが、数人のグループで四六時中行動を共にしています。その五、六人のグループの中で少しでも人間関係が崩れると大問題になります。「挨拶してくれない」「いじめだ」とか言って、訴えてくることがあります。別のグループ行こうとか、一人で居ようとすることができなくなっています。
 また1998年に、ある高校生が喫煙を注意されて、仲間が喫煙したことを先生へしゃべったことを苦にして自殺した事件がありました。「マジでごめん」という遺書を書いて、みんなに悪いと思っているから自殺する、「本当に楽しかったよ」という遺書を残して自殺したというように、みんなの目だけは本当に気にするわけです。だから、個人主義的になっているというのは間違いです。しかし、これを変えなければいけません。
 某大学の大麻事件では、中々口を割らなかったのは、共犯者が友達であって、仲間を売りたくないという誤った倫理観にこだわる学生が少なくなかった。ということで、今の若者にもこのような考え方が根強く残っているということです。
 つまり私たちに必要なのは「仲間を見捨てるな。しかし仲間以外の目は気にするな」という身内集団倫理からの脱却です。現実には身内集団は急速に解体しています。グローバル化・市場化による企業共同体、企業集団、国家の枠組み等の解体・・・。ばらばらと個人が投げ出されているという時代です。昔のままの倫理観ですと数人の仲間の集団ばかり気にして、お互いに傷つけ合う時代がやってきてしまう。だから個人主義開放社会の倫理への転換が必要です。「見知らぬ他人にも誠実に」が必要になってくると思います。そしてこれこそが「商人道」です。

 NPOや協同組合といった市民事業のミッションも商人道でなければなりません。営利事業だけでなく、ボランティアも商人道的にやっていく必要があります。
 小沢亘氏の国際比較調査では「ボランティア」のイメージを調査しています。ここで日本とカナダでは「自己犠牲」「強制的な」「おせっかいな」等双方のイメージにあまり違いがありません。しかしひとつだけ大きな違いがありました。それは「偽善的」というイメージが日本の特徴(日本38.5%、カナダ4.9%)という点です。なぜこのような結果になるのでしょうか。身内集団社会の倫理と個人主義解放社会の倫理では利己と利他のイメージが違います。
 つまり、開放市場社会の倫理では「取引すればお互いトクをする」という発想です。取引というものは、利己であり利他でもあるということです。他人のために良いことをしてあげるから、その代わりに報酬を受け取る。だから商売はそれ自体が善行であると発想されます。ボランティアはこの商人道的発想の延長線上にあります。他人のために良いことをしてあげるから、その見返りに金銭ではないかもしれないが、例えば自己満足を受けとるなどのトクをするわけです。
 一方、身内集団社会の倫理の発想では利己と利他を分けます。「身内へは見返りなき奉仕が正義」とされます。その代わり「利己行為は他人相手にするもの」と思われています。だから商取引行為は身内に対してするものではなく、他人相手にして、その場合は食い物にしてよいだと、「利己」と「利他」を分けている。他人を食い物にして身内のために手当てするということは、むしろ正義という位置づけになります。

 大事なことは、市場取引を方便としてはいけないということです。商人道ではそうではありません。市場取引それ自体が善行であると位置付けられます。
 ところが明治の近代化では武士階級が権力を握り、武士道の倫理観を学校教育で全国民に押し付けていきました。そこでは市場取引や科学技術はただの手段であり、それ自体には倫理が無いと認識されていました。目的は国家という身内集団を富ませることであり、手段は目的からの逸脱(方便)と位置付けられました。結果として、目的にかなう限りその逸脱を認めましょうと、これが「和魂洋才」です。これは大変うまくいきましたが、目的が達成されて以降は手段が暴走します。それ自体に倫理観がない故に暴走をしてしまうのです。大正自由主義のときに、結果として財閥の暴利や政党の政争が起こります。当時の少年犯罪は今の少年犯罪と比べ物にならないくらいひどいものです。
 このような退廃しきる状況にどう対処するというときに、市場取引自体に倫理観を持たせるというのではなくて、目的とされた身内集団原理を押し出して、逸脱を引っ張り返そうとする動きがでてきます。これが昭和の軍国主義で、行き着くところまで行きアメリカとの戦争を迎えたということです。
 市民事業も同じであり、市場活動を必要悪と見なすといけないのです。このような見なし方をすると、競争に勝つためということで低所得酷使、取引相手を手段と見る、不祥事などを招くといった問題が発生してくるのです。その中で異論や内部告発が出てきた場合は抑え込んでしまい、言いたいことが言えなくなっていきます。独裁者支配やカルト的集団に変質してしまうのです。これが身内集団倫理によって正当化されてしまいます。異論を出す人が仲間を裏切るものであるとか、集団の利益を裏切るものであるとか、そのように抑圧されてしまう。このようなことは良くないということです。
 そうではなくて、どのような他人に対しても誠実でありなさいという考え方が必要なのです。要は、市民的な公共性という話になるわけですが、このような議論をすると「欧米にはプロテスタントの思想があったから当てはまったが、日本には当てはまらない」との反論が必ず出されます。しかし、日本に存在していなかった訳ではなく、確実にあったのです。明治以降、表立っては論じられませんでしたが、江戸時代には豊穣なそのような倫理観があり、それが「商人道」であります。私たちが引き継ぐべきはこの「商人道」であります。これが私の訴えたいことであります。

 この後の基調講演をお願いしている川野さんには、「江戸時代の商人道」として明治にも実業倫理として「商人道」が引き継がれている点をお話しいただきたいと思います。
 以上で私の講演を終わります。どうもありがとうございました。

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