公開研究会「市民事業と商人道──現代のまちづくり・市民事業に通じる心意気 」

基調講演:川野祐二「江戸期の商人道と明治の実業倫理」


○川野祐二氏(千里金蘭大学)講演


 ご紹介頂きました川野でございます。どうぞよろしくお願い致します。
 市民事業という言葉を良く聞きますが、NPO関係の方とお話をしますと「市民事業は小さい」というイメージが随分多いようです。市民事業は始めるときは当然小さいです。例えば赤十字も初めは大変小さな団体でした。しかし今や巨大な団体で、赤十字は病院から学校までたくさんあります。始まりが小さいだけであります。近いところでは緒方洪庵が作った適塾は今の大阪大学になっておりますし、福沢諭吉の慶應義塾も今や巨大な何百億という資産を抱える組織になっているわけです。
 そこで本日は市民事業が小さいというイメージを払拭して頂き、市民事業が独自に大きくなっていった例も歴史的に多くありますが、一方で大型の篤志家によって大きく飛躍した例も紹介したいと思います。市民事業に多額の寄付をし、生涯かけて支援し続けるような大物篤志家のほとんどが大物実業家でありました。大物実業家が、なぜ生涯をかけて自ら稼いだ資産を社会貢献のために使い続けたのか考えてみたいと思います。正解があるわけではありませんが、私の知っている限り知見を紹介し、皆様への問題提起となればと思っております。

 私は数年前までトヨタ自動車が設立した財団法人・トヨタ財団に勤めておりました。社会活動貢献専門のNPOとして助成財団がありますが、企業はたくさん助成財団を持っております。例えば、日産科学振興財団、サントリー文化財団、キリン福祉財団、三菱財団など挙げたらキリがありません。財団法人は民法三十四条のれっきとした公益法人、NPOです。どのような規模かと申しますと、例えばトヨタ財団の資産総額は300億円です。このような団体は儲けたお金を基金として積み、債券などを購入して安全運用をしています。ちなみに社会貢献専門の団体なので、リスクの高い株などを購入してお金を儲けることは禁止されています。
 今日本でうまいこと運用したら5%くらいで運用できると思います。仮に5%で運用しますと、年利は15億円になります。この15億円を1年かけて配ることになるわけです。これらを市民団体や研究所に配るのです。一度経験すると分かるのですが、この配る作業も結構大変なものなのです。逆に使わずに貯め込んでいきますと主務官庁から指摘が入ります。そのため年間を通じて使い切らなければなりません。おそらく日本での民間の助成金の総額は500億円程あるでしょう。皆さんにはそのお金を使う可能性があるということです。

 世界にはもっと巨大な助成財団がいます。世界でお金を最も儲けた人はどこにいるかと考えると、ほぼ間違いなく19世紀に一気に財閥を作った人たちが今でも世界の財産を持っているでしょう。アメリカですと、ビルゲイツが作ったビルゲイツ財団は優に2兆円を遙かに超えているでしょう。ビルゲイツは世界最大の金持ちですが、たった一人で金持ちです。しかし19世紀にはロックフェラー、デュポン、ヴァンダービルト、アスター、そういった一族がいます。この一族は、例えばデュポン家の場合は、軍事産業や化学産業を一手に持っていますけれども、子々孫々増えて、今どの位いるのか定かではありませんが、おそらく2000人近く子々孫々がいるそうですけれどもいて一人残らず億万長者という話です。そのお金を集めたら大変なお金です。
 フォード自動車会社に設立者フォード1世のつくった財団「フォード財団」があるのですが、このフォード財団の資産総額は1兆円になります。また、アンドリュー・カーネギーがつくったカーネギー財団も資産総額も1兆円です。1兆円の資産視野について考えてみしょうか。
 彼らはだいたい7%くらいで運用していると思いますが、仮に5%だったとすると、1兆円の5%といったらいくらでしょうか。500億円になります。実際にはもっと大きな金利を乗せているだろうと思います。フォード財団は50年前につくられた団体でして、もっと昔からあるのですが、500億円の金利がついて彼らは一体どうするのかというと、一年間かけて配ります。500億円を配るということはとても大変なことです。実際に配っています。
 このような団体が世界中にあります。ノーベル財団法人ももちろんそうです。アルフレッド・ノーベルというダイナマイトを発明した人物が、生涯独身だったこともあってお金を社会のために使ってほしいということで財団をつくります。100年経っていますが、100年経ってもなお助成金を出し続けているという余力を持っています。
 また、アンドリュー・カーネギーというアメリカの鉄鋼王が、カーネギー財団をつくりました。またカーネギーホールや大学をつくり、さらにアメリカの図書館は彼全部つくったようなものです。莫大なお金を全て社会貢献のために使いました。彼もまた生涯独身でした。
 このようなお金の動きが市民事業団体や、例えばシカゴ大学はロックフェラー財団がつくり、一橋大学は渋沢栄一の資金が多く入っています。このようにして見てみると、学校をつくるのも図書館をつくるのも、市民が社会事業をやろうとした場合には市民事業家や社会事業家に大きなパトロンが付いて歴史に残るような社会事業を繰り広げていることが多いわけです。ですから、市民事業家や社会事業家に目が行きやすいですが、実は彼らを背後から支えている人たちがいる。このようなところまで目を向けると、なお面白くなってきます。
 先ほど石橋財団の話が出ましたが、ホリエモンがどんなにお金を積んでもブリヂスンを買収できません。なぜかというと、石橋財団はブリヂスンの株によってつくられています。財団をつくるときは株でつくっても構わないです。現金ではなくても。ただし株の売買は禁止されています。これはどういうことかというと、ブリヂスンには絶対安定株主として石橋財団が君臨しているわけです。石橋財団は株を売りませんから、売ってはいけませんから、乗っ取られることはないのです。そして、ブリヂスンが稼げば稼ぐほど配当金が増えて、石橋財団は社会貢献ができるというしくみになっているのです。
 このように財団の動きを見ないと、経済や財政の動きも見えてきません。もっと言えば冷戦時代に発展途上国が西側陣営につこうか、東側陣営につこうかと迷っているときに、例えばフォード財団はインドネシアの政治学部出身の若くて有能な人々に目をつけて奨学金を出します。そしてインドネシアの優秀な政治学部出身の人々をアメリカのカリフォルニア大学のバークレー校に入学させます。奨学金をもらった彼らは、そこでアメリカの豊かさを経験して、アメリカは素晴らしいということを知ってインドネシアへ帰国し、政治の中枢に入っていくという話があります。これは大きなことで、財団界でも有名で、フォード財団の奨学金を得て政治学のカリフォルニア大学のバークレー校に行った人々のこと「バークレーマフィア」と呼んでいます。

 元々考えてみると、美術館や博物館などのすべての社会貢献の作業も王侯貴族を含めた大金持ちがお金を投じているのです。富の集中が文化・芸術を作るということも言えるのです。これが幸か不幸かは別として、富の集中が無ければ美術館は存在し得ないわけです。特権階級が芸術を守ってきたと言えます。
 19世紀に大きなお金を手にした人々の悩みは、どんなに大きなお金を手にすることができたとしても、永遠に生きることができるわけではないということです。つまり手にした莫大な財産をどうするか、ということが問題となるのです。
 そこで大きなお金の使い方に影響を与えた人は、ひとりはノーベルで、さらに言えばおそらくカーネギーではないかと思います。カーネギーの著書に『富の福音』というものがあります。「福音」というキリスト教用語が用いられているのが特徴的ですが、この本の中でカーネギーは「金持ちのまま死ぬのは恥ずかしい」と書いています。確かに聖書には「大金持ちが天国に行くより、貧しい人の方が天国の門をくぐりやすい」と言われておりますし、この本も大きな影響を与えたであろうと考えられます。カーネギーとノーベルは実際に全財産を社会貢献に投じて亡くなりますので、実業家の中でもこの二人は別格です。ただし二人とも独身ではありましたが。彼らの動きが後々にアメリカの大金持ちに随分影響を与えたであろうと言えます。

 日本にも明治に日本のカーネギーと呼ばれた人がいます。「日本近代経済の父」と呼ばれた人がいます。それが渋沢栄一です。彼は天保、1840年の江戸時代の生まれで昭和まで生きています。渋沢栄一は何者かといいますと、一番有名なのは今の「みずほ銀行」を作った人です。また、今の名の通った一部上場企業のほとんどを渋沢が一人で作ったと言っても過言ではありません。帝国ホテルや新聞社、サッポロビールなど挙げたらキリがないですが、渋沢栄一が生涯に作った会社の数は500社とも言われております。最も有名な第一銀行(今のみずほ銀行)を作っていったように、つまり、日本の明治の産業界を盛り立てて豊かな国にするために必要な企業を次々と作っていったのです。
 ただし、彼の作り方には非常にユニークな点があります。それは渋沢銀行が存在しないように、「渋沢」と名のつく会社はありません(渋沢倉庫という会社が一つあるが)。つまり彼は会社を作る際に「それは公のためにやっているのであって、自分のためにやっているのではない」と言っているのです。その点に私は非常に興味を持ちました。それはなぜかと言いますと、先ほどお話しました欧米の例ですと初めに莫大なお金を儲け、その後儲けたお金を使って最後に社会貢献をするという流れです。しかし渋沢は違います。渋沢の考え方は義利両全、「私益と公益は一致するものである、同時に行われるものである」という考えです。自分の経済活動そのものが公益につながらなければならないと考えていました。
 ですから500もの会社を作り、大財閥を作れたにもかかわらず作らず(彼自身も「私がもし本気を出したら、三井、三菱を遙かに凌ぐ財閥を作ることができる」と言っていますが、これを否定する人はいないでしょう)、そのうえどれひとつとして自分の名前を冠した企業を作りませんでした。その企業が日本にとって必要だと思えばこそ、あえて自分で全額出すことはしませんでした。彼はものすごいお金持ちですから、いつでもどんな会社でも自分のポケットマネーでつくれるのにもかかわらず、自分で全額出すのではなく、多くの人に声をかけるのです。
 これを彼は「合本主義」と言いました。みんなでお金を出し合って会社を作り、一人の人間が独占しないようにしたのです。合本主義という形でしか会社を作らず、会社がたった一人のものにならないようにしました。これが確かに日本の企業を形作っていると言えます。明治以降古くからある会社はこの合本主義です。優秀な管理者が経営者になっていくという考え方です。この考えと全く逆なのが、三菱の岩崎弥太郎です。彼は「企業は創業者が全責任を取るべきものである」として渋沢のやり方を批判します。よって渋沢と岩崎は相容れません。

 さて、渋沢の「合本主義」とか、「論語と算盤」や「公益と私益の一致」といった考え方は、実は渋沢個人のものではなく、近世から始まっているものだと言えます。渋沢は二宮尊徳の考え方に非常に影響を受けています。渋沢栄一は1840〜1931年で、二宮尊徳は1787〜1856年というように、渋沢栄一が生まれたときには二宮尊徳は生きているわけです。
 渋沢栄一は生涯500の会社を建てましたが、しかし彼が生涯やった社会貢献の数は600です。600の社会貢献をやりますが、これも合本主義で行います。渋沢はお金持ちですから、渋沢大学や渋沢図書館、渋沢福祉団体をつくれば良いのですが、それも名前を出さないのです。その場合も、業界の実業家に声をかけてお金を出させるのです。ところが、実業界の人々は渋沢にお世話になっていない人はいないのです。例えば、早稲田大学の募金をやったときも、渋沢はこのように人を集めて「そういうことで皆さん宜しくお願い致します。」と会場が終わりそうになると、出入口のところで渋沢が机を並べて一人ずつしか通れないように狭くして、そこに奉加帳の先頭に自分の名前を書いて「金一万円」と書いてしまうわけです。渋沢が「金一万円」と書いて、その前を払わずに通ることはできないわけです。また、セイコーをつくった服部金太郎の有名な話がありまして、将棋だか囲碁だか打っているときに「こんなことをしていたらいけない。急いで頑張ってお金稼がないと渋沢さんがやってくる。」と。つまり彼の晩年のあだ名は「資金集めの天才」というものでした。
 渋沢栄一がよく言っているのが「道徳経済合一説」、道徳と経済は同じであるという考え方です。例えば、アメリカの実業家が金を儲けて、その後に老後に社会貢献をすると違って、いわゆる「義利両全」お金儲けと社会貢献を同時にやる、このようなものは裏表であるという考え方です。このような考え方は、おそらく日本の実業家たちの社会貢献の中にも根付いていると思います。おそらく我々は、堀江氏が老後になって社会貢献をやっても許さないのです。やはり、それは同時に行わなければならない。そのようなところに矛盾があってはいけない。
 ところが、二宮尊徳も経済道徳融合説を説いているのです。
 二宮尊徳は石門心学の影響を受けています。二宮尊徳が村の復興をやるときは、最初は石門心学の講釈師を呼んできています。二宮尊徳の前だと、山片蟠桃がいます。山片蟠桃の「蟠桃」は商人の「番頭さん」からとっているわけですが、石門心学の中で石田梅岩に次いで有名な人だと思います。山片蟠桃が1748〜1821年であり、石田梅岩は1685〜1744年です。明らかに二宮尊徳は石門心学の影響を受けていると言えます。
 石門心学は何だったかというと、一言で言えば商人にも道徳があるということです。それまでは「花は桜木 人は武士」と、武士には倫理道徳があるからというわけです。お金儲けよりも人間として必要なのは倫理道徳を持っていて、そして彼らはそれを徹底的に習ってきたわけです。しかし、石田梅岩は「商人にも商人道がある。ちゃんと道があるのだ。士農工商はあるが、道徳があるから我々はただの金儲けている人間ではないのだ。ちゃんと道徳を持っているのだ。」ということで、商人にも倫理観を置くわけで、そこが大きいところです。
 もう一つ紹介しておきたいことは、鈴木正三という三河武士がいます。徳川家康と一緒に関が原の戦場を駆け巡った人です。武士でありながら出家する。鈴木正三が面白いのは、彼自身は出家して悟りを開きたい。悩みない人間になりたいわけですが、いろいろな人から悩みを相談されます。例えば「お坊さんになって悩みの無い生活に入りたいのだ。出家したいのだ。」と相談されると、鈴木正三は「そんなことをするな。」と必ず言うわけです。
 しかし、出家しないと、仏門修行しないと悩みが無くならないのではないかと質問すると、鈴木正三は在家であってもどんな職業であっても懸命にやることが、仏業をやっているのと同じであると示すわけです。これは、「calling」や「天職」などと言われる勤勉や勤労の形をつくっています。なぜ、鈴木正三に注目しないといけないかというと、いくつか理由があります。一つは、鈴木正三は本を書いていますが、この考えを仏教の本にも関わらず「漢字」ではなくて「仮名」で書いています。この考え方を最初から大衆化することを目論んでいるという点においても、彼が日本の勤労や勤勉といった仏教的職業倫理をもたらしたという意味は大きかったと思います。
 このように見てきますと、明治の実業倫理を築いた渋沢の思想はフォードやロックフェラー、カーネギーといった人たちの社会貢献の思想と違うということが見えてくると思います。お金が儲かったら即社会貢献をしなければならないとする「義利両全」の考え方は、渋沢だけでなく日本の実業家に江戸時代を通じて伝わっていると思うのです。歴史的な裏付けはこれからですが、彼らの考え方は金儲けと公益は日本の場合同根であったのではないかと、もしくは同根にしようとする努力を思想的に重ねてきたのではないかと、そのように感じております。
 以上でございます。どうもありがとうございました。

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