公開研究会「市民事業と商人道──現代のまちづくり・市民事業に通じる心意気 」

研究報告:角谷嘉則「滋賀県長浜市の事例−近江商人の思想とまちづくりの視点から−」


○角谷嘉則氏(立命館大学ボランティアセンター)報告

 

 本日は滋賀県長浜市の事例を紹介させて頂きたいと思います。長浜市は滋賀県湖北地方にあたる都市で、人口は約9万人です。注目され始めたのは約20年前になりまして、株式会社黒壁の設立がそのきっかけとなりました。黒壁によって、寂れた中心市街地に商店街が復活してきました。そして年間200万人以上の観光客が溢れ返るようになりました。これには商人や地元の自治会の力が強く働いたことが背景にあります。そこで私の研究の関心は「商人道や商人の倫理がどのように影響したのか」という点に向いていきました。既に論文は書き終えていますが、本日はそのさわりの部分についてお話させていただきます。

 まず、1980年代に滋賀県長浜市で市民の盛り上がりがあり、それを裏付けるような事業がいくつかありました。その1つ目が長浜城歴史博物館の建設が挙げられます。羽柴秀吉が建てた長浜城を再建した時に、黒壁の初代社長である長谷氏が篤志家となり、兄弟で1億5千万の寄付をしました。そしてそれ以外に市民からも何億円もの寄付が集まり建設が実現しました。
 2つ目の大きな事例は1987年、市民が芸術を使ってまちづくりを行った「アートインナガハマ」です。ここでは床屋を経営する石井英夫さんが中心となりました。絵画などを飾ってまちづくりをする青空市のイベントだったのですが、できるわけがないと言われていたところで、芸術だけで何万人も集めるということをできたのはすごいと思っています。今では地元の商店街の人も多く参加されています。
 3つ目が同じく1987年に始まった大通寺表参道の商店街の近代化です。この頃、郊外のショッピングセンター等が増えてくる中で地元の商店街が立ち上がり、アーケードの撤去や道のセットバック、町並み保全に取り組みました。ここで合意形成ができたのは商人の昔ながらの町への思いがあったからでしょう。
 このような市民の一連の動きの中で生まれてきたのが株式会社黒壁です。初めは100年前の建物を保存する目的で作られた第3セクターです。今では40数社が出資しており、売上はおよそ7億円です。それ以外に黒壁グループというものがあって17店舗ぐらいの飲食店や小物などを売っているチェーン店を、黒壁グループとして認定しているところがあるということです。

 200万人くらい人が集まっての経済効果というと、おそらく200億円ぐらいの経済効果があがっているだろうと長浜市の勉強会で話していたこともありますが、この経済効果を生み出した根本となったものは何なのかということですが、先ほどの1980年代の市民の活動ということに加えて、その市民の活動を支えた倫理、その思想というもの何だったのかということです。
 そこで、長浜市最初の名誉市民の西田天香に着目してみたいと思います。西田天香は商人の家に生まれ、自分自身も商いを始め、北海道で麻を作る農園をしていたこともあります。その後「一燈園」という、宗教法人ではないのですが、宗教団体のようなものを作ります。ここからダスキンや第一建築サービスなどの会社が生まれています。
 この西田天香は近江商人の系譜を踏んでいるのではないでしょうか。ということで江戸時代の話に進みます。
 近江商人が出てくるエリアというのはほぼ決まっております。小倉榮一郎先生の江戸時代研究に基づくと、1600年代は八幡から、1700年代には湖東地方から出てきています。この頃近江商人は農村部から出てきており、都市部には見られないという結果が出てきています。しかしその後明治期には大きく変化し、都市部からも商人が出てくるようになり、そこで出てきたのが西田天香です。西田天香の一燈園の思想の柱は懺悔、奉仕、無所有となります。
 先程のパトロン(篤志家)の話に戻りますが、黒壁初代社長、長谷定雄氏を引っ張ってきた人物が福田長夫氏、旅館や海洋堂博物館を誘致した高橋光利氏を引っ張ってきたのが観光カリスマの2代目黒壁社長、笹原司朗氏でした。このような篤志家と連なるネットワークを持ち、経営力を持った人々を長浜に引っ張って来て柱になった点は長浜にとっても大きなこととなりました。つまりそのような人々の商人倫理に惹き付けられて、篤志家がお金を落とし入れ、そしてまわりの商人も連動してまちに投資していったことが今の長浜を作ったと言えると思います。
 どうもありがとうございました。

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